テストステ論

京大卒の高テス協会会長がテストステロンに関する情報をお届けします

夜な夜な京大退学エントリを読んだ

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京大情報工学科に入ったが、結局8回まで留年して退学という道を選んだ人が、「京大の良くない点を京大受験生にあらかじめ知ってもらい、自分のような悲劇を繰り返さない」ことを目標にして書いた、31ページにも渡る圧倒的な退学エントリ。

やはり京大生というのは、組織を抜ける際にはその組織について何か言わないと気が済まないものなのだろう。文体も私が若かった時のものに非常に似ている。という意味で彼は京大卒にはなれなかったが京大らしいとは思った。私も、何か言わないと気が済まない人間として、そして"先輩"として、何か言うことにする。

ご存知のとおり、私は退職エントリで強烈にバズったことがあり、その退職エントリは日立の中でかなり広まり、「このままでは若者が辞めてしまう」という問題意識を確かに照らしだしたようだから、この退学エントリも、彼の思惑どおり学科長レベルまで読まれて、カリキュラムのあり方などが考え直されるきっかけになれば良いとは思う。

が、彼がやってしまった失敗が2点ある。

1点目は、何しろ長いこと。書いてあることは1ページか2ページに収まるはずだが、なぜかここまで長くなってしまっている。彼のもう一つの目標である、大学に反省させることは、叶わないと思う。なぜならば、大人は長い文章は読まないから。

もう1点は、失敗というか、これを読むと私には「単に彼が自由を誤解釈しただけ」に思えてしまったため、一般社会の人はどうか知らないが、たぶん京大の先生も同じく感じるのではないかということ。これについて説明したい。

彼の31ページのうち半分は、パンキョーへの批判から成る。この批判の概要は,

  1. 京大は自由の校風を謳っている
  2. この自由は、学びたいことを自由に選択出来ることを含む
  3. しかしパンキョーは、現実的にはクラスの選択の余地がない
  4. 従って、出来の悪い教官に当たることもあり、こうなったら終わりだ
  5. よって自由というのは真っ赤な嘘だ

なのだが、かなり違和感を覚えた。

まず、大学というのは教えてもらうところではない。彼が京都大学は予備校だと言ってしまっている原因は、まさに彼が京都大学に予備校のような性質を期待しているところにある。実際、多くの大学というところはそういうところかもしれないが、私は、京都大学だけは違うと確信している。

京都大学では、基本的に授業に出なくてよい。というかむしろ、授業に出る人間は悪とされ、授業に出ずに優をとることが最善とされる。その意味では、どの教員のクラスをとろうとも同じである。実際私はほとんど授業に出ず、その時間を図書館で過ごした。それでいて、理系科目についてはほとんど単位を落としていないはずである。研究室にしても、強制労働をさせられている学生もいるようだが、それとて自分の意思ではないかと思っている。つまり、色々と指示されないと困るあるいはされたいと思う人が、結果として指示されているだけなのだ。これも自由である。

自由というのは、何をしてもいいということであり、しかし責任はすべて自分が背負うということである。この意味では、フリーランスのフリーは、京都大学のいう自由と同じである。

大学を予備校のように捉えてしまうと、その人は大学を卒業してからどうやって学んでいくのだろうか。大学は、学ぶことを学ぶ最後の場所であると言ってもいい。この意味では、京都大学はおそらく日本でベストな大学ではないかと思う。

彼のミスマッチは、もし京都大学に入ってなかったらありえなかったと断言する。なぜならば、根本には、京都大学が自由の学風を謳っていて、悲劇にも彼がそれを理解出来なかったことがあるからだ。しかし繰り返すと、これもまた自由なのだ。

なので、彼の悲劇は勉強が出来たために京都大学に入ってしまったことにあるのだが、おそらく彼は、いわゆる進学校の出身だと推測する。優れた教員から一方的に知識を供給されて、それをただ吸収することに慣れてしまったが故に、学ぶことを理解出来なかったのだろう。

この意味では、私の母校である麻布学園京都大学と非常に相性がいい。麻布学園は、日本屈指の進学校でありながら、日本一自由な学校でもある。教師と生徒の関係はわりとフラットであり、生徒は一人の大人として扱われる。従ってそこには責任も伴うし、自分で考えることを強制される。私は、麻布学園で青年期の6年を過ごせたことが人生の宝であると思うし、そこから京都大学に入ったので、大学生活が楽しかったのだと思う。

しかし麻布学園はここ最近、人気がなくなっているようである。その一因は、ロクな受験指導をしないこと。結果として現役受験成績が悪いことである。私からすると、そんなことが人間にとって何の価値があるのかと思うのだが、世の中的には非常に価値の高いものらしく、人気を失っており、麻布の凋落とまで書かれている。この退学エントリを書いた彼も、その世の中の一員であり、彼のいうように本当に、京都大学に入って悩んでいる人は結構いるのではないかと思う。

そういう人たちが救われること自体には価値があると思うが、その方法は京都大学が自由の学風を捨てることではないと思う。自由の校風を貫くことが、京都大学の使命であることは間違いないからだ。ではどうすれば良いかというと、やはり入試を変えることだろう。どう変えるかの案は持っていないが、少なくとも、彼のように明らかに京都大学になじめない人は、落としてあげる方が良いと思う。もちろん今のように、「1%の天才と99%の凡人を生む」個性的な大学であり続けることをOBとしては望むが、大学に入って悩み続けそのまま社会でも悩み続けるという人生をたくさん生むことは良いことではないし、彼は阪大に行ってたらきっときちんと大学を卒業出来ただろうし(阪大は面倒見の良い大学なのだ)、逆に他の1人が京大に入れたわけだから、大学側としても考えることがあっても良いと思う。