【読解】伊豆の踊子

前置き

川端康成の伊豆の踊子を読んでみた。 読んだことがなかったし、日本人としての教養がなく、恥だと思ったからだ。

伊豆の踊子は有名なので長編小説かと思いきや、 実際には50ページにも満たない短編小説だった。 内容も、ただ「私」がたまたま出会った旅芸人たちと一緒に旅をするだけの話なのだが、 登場人物の心情や彼らの背景を想像しながら読むと、奥深さが味わえる。

しかし、読んでみても謎が多い。 この小説はさながら推理小説で、 なぜ「私」が伊豆旅行に出かけたのかもはっきりとは書いていないし、 そもそも栄吉たちが甲府から大島に出てきた理由も書いていない。 「私」は小説の中で度々泣くのだが、その理由も評論家の中で評論が分かれているもののようだ。

議論を生んだうち有名なものは、最後のシーンで「私」と踊り子が別れるシーンにおいて、 さよならを言おうとしたけどうなづいたのはどちらかというものだ。

ここには主語がない。川端康成本人の説明によると、主語が踊り子であることは流れから言って自明であり 議論の余地はないというものであり、言われてみれば確かにそうなのであるが、 おれが一回目に読んだ時には自分の好きなように解釈してしまい、 さよならと言おうとしたのは「私」であり、うなづいたのは踊り子だと読み違えたのである。 文章的には明らかな読み間違えであるものの、それもアリなのではないかと思えるところに、 この小説の読解の面白さがある。 「私」がさよならということと踊り子がさよならということは 意味が全く違い、「私」がさよならと言おうとしたとした方が、 この二人の中でなにか通じ合ってるものがあることが描写出来る。

といった具合に、伊豆の踊り子は解明編のない悪質な推理小説のようなものなのであるが、 とりあえず、登場人物や時代背景などを整理していき、解釈が難しいと思った箇所に対して おれなりの解釈を与えるというのがこの記事の主旨となる。

あらすじ

孤児根性に耐えられなくなった「私」(一高、つまり東大のエリート学生)は、伊豆旅行に出た。 修善寺で1泊、湯ヶ島で2泊したあと、天城峠に向かった。 修善寺と湯ヶ島で見かけた旅芸人がちょうどその頃に天城峠に差し掛かっているだろうという予想が当たった。 目当ては17歳と思われる踊り子だった。 彼らと旅路をともにすることを決めた「私」は次第に旅芸人たちと親しくなっていき、 彼らがもとは甲府にいて大島にやってきたこと、旅の途中で子供が死産したこと、17歳と思っていた踊り子が実は14歳の子供だったことを知る。 旅の終わり、下田で船に乗ろうとするとそこには踊り子がただ黙って座っていた。 別れの言葉も交わさずに別れたあと、「私」は船の中で号泣した。

登場人物

  • 「私」: 孤児根性に歪んでいることがコンプレックスの一高のエリート学生。20歳
  • 栄吉: 元は甲府にいたが身を誤った果てに大島で旅芸人をしている。以前に東京で芝居をしていた。24歳
  • 千代子: 栄吉の嫁。甲府出身と思われる。身体が弱く、過去に流産をしており、この旅の途中にも死産した。19歳
  • 百合子: 大島出身の雇い。17歳
  • 四十女: 千代子の母。甲府出身。甲府に尋常5年の子供を残している。40歳くらい
  • 踊り子: 栄吉の妹。尋常2年まで甲府の小学校に通っていた。14歳

旅程

伊豆半島を上から下に向かっていく。 「私」が旅芸人と出会ったのは天城峠で、それから一緒に旅をする。 素っ裸の踊り子がこっちに手を振るのは湯ヶ野でのこと。

時代背景

旅芸人は乞食

下田の入り口に「物乞い旅芸人村に入るべからず」という看板があったり、 旅芸人が「あんなやつら」呼ばわりされてるシーンがあるとおり、 この時代においては旅芸人は乞食扱いされている。

女は汚れたもの

湧き水を女が先に飲んだら汚れる、女が箸をつけた鍋は汚れると 踊り子が言ってる描写があるとおり、女は男より遥か下に見られている時代である。 旅芸人の中でも「私」と栄吉だけがまともな宿に泊まり、女たちは 木賃宿という底辺宿に泊まるということからも、 男に比べて女は遥か下に見られているとわかる。

解明編

伊豆の踊子という小説にはたくさんの謎がある。 その謎が他の人にとっても謎であるとは限らないが、 おれなりに謎であると感じた部分について、それぞれ自分なりの解釈を加えていく。 想像によって背景を補ったが、自分が一番妥当であると思うものを信じた。

孤児根性とは何なのか

伊豆の踊子は川端康成の実際の旅を元にして書かれたものなのであるが、 川端康成は幼い頃に両親、姉を失い、祖父に育てられる。

そうした経験を経て、彼の中では孤児ないしは下宿人として 最適化された精神性が構築されていった。

例えば、

  1. かわいそうと哀れまれて世話される、本来は屈辱であることを受け入れる
  2. 世話してくれる人に対して(血が繋がっていないなどの理由で)気を使って本音でものを言わない

といった精神性であると考えられる。

「私」はなぜ伊豆に来たのか

鬱屈した感情を温泉旅行で癒やすくらいのものであるように思う。 特に、孤児根性自体を改善する意図はないように思う。

栄吉に柿代を投げ返されるシーンは何を意味しているのか

孤児根性を持った「私」は、旅芸人をする栄吉を哀れんだ。 故に、自分がそうされたら喜ぶという考えから、金を渡せば喜ぶと思った。 しかし栄吉は、そういう精神性の持ち主ではなかった。 乞食のように生きる人間が必ずしも自分と同様の精神性を 持っているとは限らないことを知る一節として重要な意味を持つ。

東京に住み、一高のエリートでありながら孤児根性を持つ「私」と、 乞食でありながらも人生をなんとか受け容れて前向きに生きようとする旅芸人たちは 作中では対照的に描かれている。

こうした自分とは違う人間と出会うことによって「私」はさまざま刺激を受けるのである。

栄吉はなぜ大島に来たのか

栄吉が大島に来たのは「身を誤った果てに落ちぶれた」がためと言っている。

こういった背景を想像する。

栄吉は千代子と結婚することを親に反対された。 病弱だったからである。 当時、結婚をするのは跡継ぎのためでもあったから 健康な子供を産めることは嫁になる絶対条件であった。 女性はただの産み袋としか見られていなかったことが時代背景からもわかる。 千代子は実際に二度流産をした。

しかし栄吉は千代子を見捨てることが出来なかった。 その結果、栄吉は親から結婚自体は認めてもらったものの、 家を出ていくこと、そして千代子の家から男の子(民次)を養子縁組すること の二つを条件にされた。

なぜ踊り子は大島に来たのか

自分の妹である踊り子に旅芸人などをさせているのは「またいろいろな事情がある」と言っている。 その時に「栄吉はひどく感傷的になって泣き出しそうな顔をしながら河瀬を見ていた」ということだから、 相当な事情、例えば自分の行いが原因で踊り子が旅芸人をしているなどが想像出来る。

であるとすると、民次を尋常小学校に行かせることになったがために 踊り子に対する教育が打ち切られたという理由ではないかと思う。

なぜ四十女は踊り子に対してこんなに過保護なのか

二度と会えない自分の実の子の代わり同然だからである。 あるいは、踊り子に何かあると、甲府においてきた民次の立場が悪くなる という心配もありえる。

「冬でも?」は何を意味しているのか

大島には学生さんがたくさん泳ぎに来るという会話の中で、 踊り子が「冬でも・・・」というシーンがあるが、 これはどういう意味なのだろうか。

14歳にもなって裸で手を振るシーンや、 大島のことを聞いてるのに甲府のことを話すシーンのこともあり、 最初は、少し知恵遅れ気味なのだろうかという考えもあったが、 五目並べで強いシーンが描かれているからそれはないだろう。

一番妥当なのは、「冬に大島に来てほしい」だと思う。 このすぐあとに「この子は色気づいたんだよ」のシーンがあるため、 この時点ですでに「私」に好意を寄せていたと考えるのが自然である。

踊り子が甲府のことを話す描写は何のためにあるのか

踊り子が本心では甲府での生活に未練があることを表わしている。 そうすることによって、踊り子が旅芸人として生きる人生を受け容れていることが引き立つ。

なぜ「私」は船の中で泣いたのか

「私」はこの小説の中で何度か泣く。

一度目は、五十銭銀貨一枚のために過剰に親切にしてくれる茶屋の婆さんを見て。

二度目は、踊り子が活動に行くことを四十女に反対されたために一人が活動に行ったあと、 宿の窓から外を眺めながら泣いている。 これは、自分の行きたかった活動にも行けず、ただ今日明日食うために何の将来性もない 旅芸人という仕事を夜までやらなければいけない踊り子の悲惨な運命に感傷したためと考えられる。

このように、 「私」は他人のことを思って泣くことがある。

三度目は、船の中で。 これも同様に、踊り子のことを思って泣いたのだと考える。

孤児根性に歪んだ自分は一高の学生としてエリート街道を進む。 一方で、踊り子は心がまっすぐで純粋にも関わらず、これからも一生乞食として行きなければならない。 そして踊り子は本心では甲府での生活に戻りたいと思っているが、子供ながらにその運命をどうにか受け容れようとしている。 その不公平さを思って、泣いた。

なぜ踊り子はさよならを言わなかったのか

「いいえ、今人に別れてきたんです」

というのは、二度と会うことはないという意味である。

もともと「私」は冬に大島に行く約束をしたのだから本当ならば 「また冬に会いましょう」と言って別れるものだろう。

しかし実際には彼らの運命は今後一生交わることはない。 これから先、生きる道が違うからである。

このことは、踊り子も受け容れていた。 だから「さよなら」を言おうとした。 しかし、やっぱり子供だからどうしても悲しくなって、 頷くしか出来なかった。 活動に連れていってくれなかったからふてくされていたというものではないと思う。

そのことがわかったから、「私」は泣いた。

伊豆旅行に出かけたい

伊豆の踊子は真に素晴らしい小説で、 このしょうもない感想文を書くためになんども読み返し、 「私」や踊り子がなにを思っていたのか考えたのであるが、 何度読んでも感動があった。 まだ読んでいない場合はみなさんもぜひ読んでみてほしい。

いつか時間が出来たら、伊豆の踊り子の風景を見に、 伊豆旅行に出かけたい。

大島にも、一度行ってみたいと思っている。

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