SAPIXと鉄緑会は日本の癌

おれは25年も前のことにはなるが 麻布中学に入った当時、 SAPIXという塾の出身者の中に 少しおかしな発想をする人がいることに気づいていた。 (難関私立中において、出身塾は当時からアイデンティティであり、 お互いがどこの塾出身かは把握しているものである。 知らなくとも、こいつは青いなとか、こいつは赤いなという感じでなんとなくピンと来ることがあった) しかしあくまでなんとなくであり、真剣に考えたわけでもなく、 当時はSAPIXも今ほどは強くなくてサンプルも少なかったわけだから、 言語化出来るレベルにはいかなかったわけだが、

登別旅行中に塾歴社会という本を読み、頭の中が整理された。

そして、地上より立ち上る湯けむりを見ている時にふとこんな考えが浮かんだ。 「SAPIXと鉄緑会は日本の癌なのではないか。鉄緑会指定校出身者であることは恥なのではないか」

いや、正確にはSAPIXや鉄緑会が日本の癌というよりは、 日本の受験戦争自体が行き詰まっていて、その象徴がたまたまこれらの塾なのだということなのかも知れないが、 おれはこのやり方を正とした教育法は、つまらない受験ロボットを量産するだけにとどまり、 そこからの発展を一切生まないと思う。 具体的にいうと、SAPIXや鉄緑出身の人間は優れた研究をしたり、 優れたソフトウェアや 芸術を生み出したりする可能性は極めて低いと思う。 もともと持って生まれた知能は高くとも、それが潰されてしまう可能性が高い。

SAPIXの話をすると、SAPIXは他の中学受験塾とは違い、復習主義をとっている。 おれは、これを大学受験ならいざしらず、中学受験の段階でやってしまうのは大いに問題であると思う。

昨今、学習法が脳科学の方面から解明されてきており、ただ受験で点数をとるためであれば、 復習を中心に行う方が良いことがわかってきた。 それを、既存の塾に対するアンチテーゼ的に取り入れたのがSAPIXという塾であり、 これによって今や一強と称されるまでに成果を出すに至ったわけである。

四谷大塚では、予習シリーズというテキストを使っており、 事前に予習をした上で塾に行き、そこで理解を深めるという学習をする。 したがって、おれもそうだったのだが、最初は何もわからんテキストをひたすら読む という苦痛を伴う。その上で、やっぱりなんもわからんという状態のまま塾に行き、 なんとなくわかったような感じになるが、あとになってやっぱりなんもわかってないという ことを繰り返しながら山を登っていく。 非効率に見えるかも知れないが、小学生なんだしこれでいい。 中学受験というのは実に難しいことをやっているのだから、なんもわからんくて良いのだ。 それに、社会に出れば1問を10分で問題を解かないといけないということはなく、 ソフトウェアの仕事であったとしても、 あーこれは無理かもしれんねという問題に対して何ヶ月もかけて取り組んでいくのがふつうだ。

ここで、全くわからなかったけど、やっていくうちにわかるようになったという大量の成功体験が役立ってくる。 いわゆるグリットが養われる。 また、予習中心のやり方では、わからないことは別に悪いことではないから、 わからなくても慌てることはない。むしろ、わからないことを楽しむようにすらなる。 これが、正常な意味での知的好奇心を養うのだ。 わからないことは楽しいことだろ。違うのか? どうやらSAPIXや鉄緑の出身者はそうは思わない。彼らは、わからないことは悪いことだと考える。

一方で、SAPIXの復習主義はこういった機会をすべて奪ってしまう。 こういう教育を小学生のうちにしてしまうと、わからないことが悪いことだから怖くなり、 答えがない問題を小利口に回避し続ける人間になってしまうのは自明であろう。 本にも書いてあるとおり、遥か天空からSAPIXを利用してやるくらいのレベルにある 子供はよいかも知れないが、そんな子供は例外中の例外であり、多くの子はただ、 わからないを学ぶ機会を失われて、はんちくな受験ロボットになってしまう。

SAPIXはこうやって力をつけた結果、 何を思い上がったのか ある学校に対して「あなたの学校の試験問題は努力が正当に評価されにくいから 変えるべきだ」と手紙を送ったとされる。 そうでない限り、SAPIXとしてはあなたの学校に生徒を送り込みません ということだろう。 この学校は明には書いていないが、前後関係から麻布学園と考える。 前後関係というのは、もともとSAPIXには灘や麻布の難しい問題が好きな 中学受験マニアが集まった塾だったが、今ではこういう手紙を送ってしまうようになり、 何かが狂ったのだろうかという流れのことだ。 当然、学校側は拒否。それは正しい判断だったと思う。 SAPIXに屈するべきではない。 SAPIXは間違っている。であれば、その延長である鉄緑会の指定校を切らないのはなぜだ? この本を読めば、この2つの全く別々に見える事柄が実は繋がっていることがわかる。 両方と手を切ることが正しいことなのに、麻布学園はそうしようとはしない。矛盾している。 おれは、麻布学園が鉄緑会の指定校を自ら外れてくれることをOBとして願っている。

一方で武蔵は、SAPIXには半ば見限られ、鉄緑会にも指定校を外された。 今、武蔵は、受験成績が低迷し、学校経営にも影響が出ている。 そこで教育のプロである杉山新校長の下に立て直しを図ろうというわけであるが、 おれはこの結果、武蔵は受験成績をある程度は立て直すと予想している。 もともとポテンシャルはある生徒をとっているわけであり、 良い教育をしているわけだから当然だ。 そうして、鉄緑会の指定校に復帰することが出来ると思う。 しかしここで、鉄緑会と縁を切れるかどうかに注目している。 鉄緑の指定校になるというのは、受験生の少なくとも母親にとっては魅力的なことであり、 学校のバリューとなる。でも、武蔵のバリューはそこじゃないはずだ。 だから、おれは武蔵が麻布のようにちぐはぐなことをしないことを願っている。

最後になるが、おれはこの塾歴社会というタイトルから一つの未来を想像した。 今でも、有名高校の出身者は経歴に高校名を書くことが多い。 それは、高校から大学へのつながりが他人との差別化に有効だからだ。 それに、ただの京大よりも、麻布から京大の方が自由が好きな感じが強まるだろう。 そういう感じで、高校名はその人のアイデンティティにもなる。

では、塾名はどうか? おれは、今後は、出身塾名もその人のアイデンティティになってくると思う。 先に書いたように、現場の人間ならば、こいつはサピ臭がするということがわかってくる。 そしてこれが、就職などにも影響してくる未来が見える。 SAPIXや鉄緑の出身者は、その出身者として型づけされてしまうというわけである。 もちろん、本人には何の非もない。 敢えていうと非があるのはその親であるが、子供の「受験!合格!」を願うのは親として当然であるからこれも悪くない。 では一体誰が悪いのだろうか? 誰も悪くないのだ。敢えていうと悪いのは人間。 受験が人間の格付けの意味を持ち、それが昇華していった結果、 究極解であるSAPIXや鉄緑会を偶然にも生み出してしまった。 いってみれば、受験界の原子力爆弾みたいなもんなのだ。 核兵器は良くないものだとみんなわかっているのに、なぜ人はSAPIXや鉄緑会に行こうとするのだろうか。

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